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図書新聞経済時評1998.3.

 

大蔵危機の意味

――保守革命は可能か

 

橋本努

 

 金融監査をめぐる事件は、一月二十六日、大蔵省の検査官二人の逮捕に端を発し、三塚博蔵相の辞任(二七日)、小村武事務次官の辞職、大蔵省金融取引管理官(ノンキャリア最高ポスト)の自殺(二八日)、さらに全国銀行協会連合会会長が辞任する(三〇日)という事態にまで進展した。この一連の出来事は、抜本的な金融改革がいかに必要かつ困難であるかを、改めて露呈したといえる。

 過去にも似たような不祥事がなかったわけではない。大蔵省の現役官僚に限った場合でも、九五年の二信組背任事件における訓告処分、九六年には泉井事件における接待疑惑と第一生命からの携帯電話無償貸与による訓告処分、さらに九七年の夏には、大蔵省の検査官二人が第一勧銀の接待を受けて処分されている。しかし今回の事件は、これまでになく象徴的な意味を帯びている。すなわち、司法強化の実現、金融監督の困難、旧システムの崩壊、という制度変革上の象徴的意味である。

 第一の司法という点では、九五年に二信組事件に絡んで大蔵省キャリア幹部二人が辞職したときに、過剰接待が発覚していながら法的逮捕には至らなかった。九六年の住専処理においても司法は無力であった。しかし今回の大蔵官僚逮捕は、司法がようやく機能しはじめたことを象徴している。

 ただし司法の力は、接待額がその数倍と噂されるキャリア官僚にはまだ及んではいない。結局、地位の低いノンキャリア(一般事務職員)のみ逮捕されて終わるのか。また、検察側は、大蔵官僚が検査日時の情報を漏らしたことを立件できていない点でも弱い。金融証券検査官室長の宮川容疑者は、融資に関するあさひ銀行の虚偽報告を見逃すかわりに、同銀行からのマンション購入をあっせんしてもらったという疑義で逮捕されたが、検査情報に関する容疑はかかっていない。

 もっとも言論界では、MOF担制度や接待費の額と内容が正当に問題視されている。過剰接待という点では、キャリア組現役官僚の逮捕を急ぎ、また、官僚の接待限度額を明確に制定する必要がある。さらに公務員倫理規定法の制定も急ぐべきであろう。(ちなみに米国では、連邦政府の職員が接待を受けられる限度は一回二〇ドル、年間五〇ドル以下と決まっている。)

 第二に、金融の監督という点では、今回の事件によって、官民癒着のない厳格な金融検査を実施するきっかけが与えられた点で象徴的である。これまで官と民は、一体となって経営の健全化を怠ってきた。その結果が膨大な不良債権の累積と処理の遅れであり、現在の金融システム不安である。この反省から、今年の六月には大蔵省から独立した金融監督庁が設置される。しかし、そのメンバーは九割以上が大蔵省出身者であるというから、旧体質を引き継いでしまう可能性が高い。またその人員は約四〇〇名というが、例えば米国の検査当局は八〇〇〇人の体制であり、比較にならないほど少ない。検査官が少なければ、過度の業務負担を避けるために、銀行側との事前の打ち合わせが必要となる。金融監督庁の設置は、人員からして問題がある。

 第三に、旧システムの崩壊という象徴的意味がある。今回の事件によって、大蔵省を中心とする官民癒着の護送船団方式を抜本的に変革するきっかけが与えられた。金融業界はこれまで、主要一九行のMOF担が大蔵省と手を結び、そこで得た情報を協会員の銀行に与えたり、大銀行が小銀行を助けたり、あるいは横ならびの決済をするという方式によって金融制度の信頼を維持してきた。しかし現在では、この方式は金融制度全体を衰退させる最大の原因となっている。金融制度を改革するには、大蔵支配を弱めなければならない。

 ところがパラドキシカルなことに、大蔵省が弱体化すると、今度は金融改革ができないという問題が生じる。大蔵省にそれなりの権限を与えて金融制度の信頼回復と構造改革をしなければ、システム全体の衰退を免れない。大蔵省への批判は、かえって経済危機への対応を不可能にしている。現在必要なのは、大蔵省がその権限を十分に発揮して、「信頼」のシステムを再建することである。つまり、現在の大蔵支配を保守しつつ、金融制度の構造改革をすることである。しかしそのような「保守革命」は可能だろうか。それが大問題なのだ。

(経済思想)